風吹かば倒るの記 /今井宏

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help リーダーに追加 RSS Wed 081119 「父親力」を発揮するな 父親は模範になるな

<<   作成日時 : 2008/11/20 22:54   >>

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 最近は少し下火になった感があるが、この5〜6年「受験は家族でチャレンジするもの」という発想の雑誌がたくさん創刊された。書店で手に取ってペラペラめくってみると、どの雑誌も「父親力」とか「父親学」を強調している。家族の協力なしには受験は勝ち抜けない、その中でも特に重要なのが父親の役割で、「受験の勝ち組になるには、パパたちはこぞって父親力を鍛えなければならない」というのである。21世紀のパパたちは、つらい。通勤でヘトヘト、勤務先でヘトヘト、部下は飲み会にも付き合ってくれず、ノミニケーションは既に死語、早く家庭に帰れば家族の苦情をいろいろ聞かされてウンザリ、と思ったら今度は何と「父親力」を磨き、発揮しなければならないのだ。
 ただし、この父親力なるものについて、それを書いている雑誌の記者たちがどのぐらい真剣に考えたものなのかは、一応疑ってかかった方がいい。雑誌の編集会議なら、どんな編集会議でもだいたい同じようなもの。読者層の注目を集める新しいコンセプトを、頭をひねり知恵を絞って出し合い、一日中ブレストをやった挙げ句、「それじゃ平凡だ」「そんなのはもう古い」「それは新しすぎる、世間が追いつけない」「うーん、いいコンセプト出ませんねえ」「じゃ、父親の役割に注目してみませんか?」「お、それはいけるかも」「コンセプトは、父親力、でどうでしょう」「おお、いいねえ、父親力か。じゃ、そのコンセプト、来週までにA4一枚にまとめて、ボクにメールしてくれる? 部長に提出しておくよ」「わかりました、課長。じゃ、飲みに連れてってくださいよ」「いいねえ。じゃ、鳥安でいい?」「ええっ、また鳥安ですかあ? ギロッポンとかザギンとか、たまにはもっと派手にいきましょうよ」「ぜいたく言わないの」「ま、いっか、いこいこ」。

(がっぷり四つ)

 こんな感じで、どこかの雑誌社の夕暮れの会議室で仕方なく決まったコンセプトが「父親力」なるものである可能性は、決して低くはないのである。しかも、最終的な記事の執筆は、外注でフリーライターに丸投げ、最終的にいろいろ雑誌社が追加訂正したとしても、要するに辻褄合わせ程度、そういうことも多い。そうやってどこかの雑誌社が記事1本うまく当ててしまえば、他社はどんどん追随する。健康法とか、流行のダイエットとか、流行とはその程度のことででっち上げられることが少なくない。
 いい面の皮は、パパたちである。通勤電車でモミクチャになりながら、ふと見上げると雑誌の中吊り広告で「父親力」。帰れば、不機嫌な顔の奥様が「お父さんがちゃんとしていないと、受験は勝てないんだって」。塾から帰った子供が「うちのパパじゃ、ダメだね」。せっかくビールを飲みながらゴルフ中継を見ていた日曜の午後に「あなた、今日は塾の父母会よ」。で、仕方なく出かけていくと、塾の若い教室長が出てきて、「父親力、ということが言われています。受験は、家族全員の協力が不可欠。今日からは、お父様方の出番です。ぜひ、お子さんの模範になって、お子様を合格へと導くリーダーシップを発揮してください」。それで万が一受験に失敗しようものなら、「父親のせいね」「うちのパパじゃね」「あーあ、佐藤くんチのパパ、弁護士だって。いいなあ」。
 雑誌の編集会議での思いつきのせいで、ここまで苦労しなければならない父親が日本中にどのぐらいいるか、考えると悲しくなってくる。しかし実際には、「たかが受験」なんかに、父親がそんなに力を発揮しなければならないなどということはないのだ。その証拠に、ほんの少し前までは、子供の受験に父親がこれほど頻繁に引っぱりだされることはなかった。ママ、塾、学校の先生、家庭教師、参考書、問題集、通信添削などなど、受験ジャーナリズムが寄ってたかってありとあらゆるテーマを取り上げてきた挙げ句の果て、最後に残ったのが「父親の役割」という話だったにすぎない。この調子だと、そのうち「おじいちゃん力」だの「祖父母力」だのが持ち出されるのではないかと思うほどだ。
 父親というものは、ジャーナリズムに踊らされることなく、受験からは冷静に距離を置いて立っているのが、むしろ望ましいスタンスである。ヤタラに受験に口を出すパパよりも、そういう余裕たっぷりの笑顔の父親の方が、子供にとっては遥かに望ましく、頼りがいも感じられるものである。「模範になりましょう」「子供と一緒に勉強しましょう」「子供とのコミュニケーションを増やしましょう」など、ジャーナリズムはいろいろ囃し立てるが、「お父さんは仕事に夢中」というスタンスで、「でも相談があったら何でも言ってみなさい」という笑顔でいるのが一番である。

(粘り強いナデシコ)

 よく言われていることの中で一番ダメなのが「父親は模範になれ」「子供に模範を示せ」である。模範になっているエライお父様方には誠に申し訳ないが、「模範的な父親」とは、家族にとって、特に息子や娘にとって、この上なく息苦しい存在になりやすい。早朝にキチンと起き、食事中も姿勢も乱さず、発言は常に品行方正、酒に酔うこともなく、休日は読書。身体を鍛えることも忘れず、テレビなど見ることは滅多になく、見るとしても真面目なニュース解説番組だけ。子供の悩みにもしっかり正統派の回答、奥様と協力してリーダーシップを発揮。まあ、1週間か2週間なら、こういうお父様がいたら、家族はみんな夢心地かもしれない。
 しかし問題は、父親と子供の関係はもっともっと長期的なものだということである。短期なら模範的パパは憧れの対象であっても、憧れの対象と毎日毎日顔を突き合わせていれば、遠からず気分は鬱屈してくる。何か相談しても、まるで正統派ロボットみたいな答えしか出てこないのでは子供としてはつまらないし、「父親と母親ときわめて協力的」ということは、結局ママとパパは同じことしか言わないのだから、やがて子供は話しやすいママとばかり話すようになる。堅苦しいパパと話しても、肩が凝るばかりだからである。
 こうして、模範的父親と子供の間にはどんどん距離が出来る。コミュニケーションをとるにも、子供が向こうを向いてしまって聞こうとしなくなれば、模範的父親としてはもうどうしようもない。実際の家庭でも、小説やドラマでも、家庭内不和や父と子供の反目は模範的なパパのいる家庭で起こるのだが、おおよその流れは以上のようなものである。しかも、ソッポを向かれたとき、模範的パパは「自分はこんなに目一杯で、これほど模範的なのに、一体どうして」と唖然とするばかりで、もう打つ手がない。「お前たちは自分勝手だ、お父さんはちゃんと努力してあげているのに」という父親独特の悲鳴を上げるのも、欠点のないエライ父親に多いのである。

(熱戦は続く)

 むしろ、父親は「ダメなパパ」を演じるぐらいの余裕がほしいものである。それが地でもいいし、わざとらしいものでなければ、演技でも構わない。テレビニュースを見ながら茶化すようなイタズラっぽい発言ばかりしてもいいし、夕食後に酔っ払ってソファでイビキをかいて居眠りしてもいい。深夜までWOWOWでテニス中継やSATCを見ていてもいいし、子供の前でマンガを読んでも、トイレに新聞を持ち込んだまま置き忘れてきてもいい。休日にはTシャツかジャージで昼間からビールを飲んでもいいし、子供が入試を控えているのに自分だけ海外旅行に出かけてもいい(以上全て私の行動実態)。
 子供は、「父親がキチンとしていなければ生きられない」などというヤワな存在ではない。むしろ、母親と一緒になって「お父さん、ちゃんとしてよ」「いい加減にしなよ」と顔をしかめるぐらいの方が子供は成長するものだ。元来、オスなどという生き物は自分勝手で気まぐれなのが普通。そういうイタズラでどうしようもない父親を、反面教師にするかお手本にしてしまうかは別として、ママと一緒に呆れ顔でたしなめながら、子供は急速に成長するのである。そして子供自身が失敗したりイタズラを叱られた時に、かけがえのない「叱られ仲間」としてションボリ頭をかきながら、「でも、叱られても、失敗しても、別に構わないんだぞ。だってそっちの方が楽しいし、面白いんだ」と悠然と横でニヤニヤ笑っていてくれれば、それが最高の父親なのではないかと思う。
「模範的父親」などというものは、「いつまでも子供は自分に頼り切っている、自分がいなければ生きていけない、いつまでも頼っていてほしい」という幻想の産物である。要するに「子離れ」が出来ていないのだ。子供が10歳を過ぎたら、さっさと子離れをして、「オレに頼るな。ま、失敗したら一緒に叱られようぜ」という態度で子供に接するべきだと思うが、いかがなものだろうか。

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